策士溺れず
いまだ学歴が最重要視される日本では、受験は一大イベントだ。事によっては数年前からその準備に追われ、一家族上げての戦闘体制に辟易しながらも逃れることも難しい。 もとより追い詰められることの苦手な俺は、翌年に大学受験を控えながらものんべんだらりとしており、内心には若干の焦りを覚えながらもアルバイトなどに明け暮れたりしていた。 もちろんこれを親が芳しく思うわけは無い。有言無言の追い立てに、時には内心自らを省みたりしながらもむしろ行動はそれに反発することが多かった。
しかし、時ついに夏を終え受験も本番。さすがの俺もアルバイトに見切りをつけるときが来た。 いつまでたってもコシをあげない俺の姿に日々ストレスをためた母親は、修羅の仮面をかぶった仁王のような顔をしている。 「いつまでこんなことしているつもりなの!」 「少しは自分の人生のことまじめに考えなさい!!」 胃に穴をあけて腹膜炎になりかねない母の憤りにシャッポを脱いだ俺は、ついに月末でのアルバイトの打ち切りを約束させられた。上目遣いに先方にその旨を話すと、やはり受験生であることは理解してくれていたらしくすぐに承諾してくれた。 いよいよ本腰を入れて受験勉強なんぞをやらなきゃならんのかと思うと気が滅入る。母親は、これで少しは落ち着いて勉強するだろうと小康状態だ。
そして、ついに月末は訪れ俺はバイトを辞めることになった、ハズだった。 しかしその時点で抱えていた仕事に一区切りがついておらず、先方はせめてそれが片付くまで続けてくれと給料アップを持ち出してきた。もとより静岡県民のクセに江戸っ子の俺は、頼まれたらイヤとは言えない。後先のこともろくに考えず、俺はその依頼を承諾した。 家に帰って、横目に母親の顔を見ながら味噌汁をすする。テレビでも見ているふりをしながら、俺は必死に策を練っていた。 「さて、どうやってごまかそう」 結局大した言い訳をすることもなく、アルバイトは続けられた。まぁ高校生ともなれば、学校の用事もあるしそれなりの付き合いもある。当初、アルバイトを辞めたという事実に母親もある程度寛容になっていた。 しかし、以前と変わらず家に帰ってこない俺を見かねて、母親はだんだんとまたストレスを募らせてきた。依然アルバイトの一区切りはつかない。無言で非難する母親のオーラは、ピシピシと俺の尻を叩く。 状況的にもう限界だと感じた俺は、アルバイトに一区切りがつくまで今日は家に帰るまいと心に決め、袖をまくって家に電話をした。 「今日はかなり遅くなるから」 電話の向こうでいくら怒鳴られても、目の前ほどは怖くない。よく聞こえないふりをして、怒鳴られるまま俺は電話を切った。
結局一区切りつけるに至ったのは午後12時を回った頃だった。先方と今度こそ最後の挨拶を交わして、すっかり涼しくなった夜の闇のなか家路へとつく。この期に及んで、俺の頭の中にあったのは憤怒の母の怒りを如何に静めるか、ただそれだけだった。 ゆっくり歩いたつもりなのに、あっという間に家についてしまった。幼少の頃からの技で、俺は物音をまったくたてずにドアを開け、家に入ることができる。すでに深夜1時近い家の中はひっそりとしており、家の者は皆2階で寝息を立てていた。 若干の安堵を覚えながら、俺は明日の豪雷の避雷針を必死に探した。受験期に夜遅くまで理由も告げずに出歩き、しかも詳細の詮索免れるには・・・。 その場逃れを電光石火のごとく思いつく天性の素質は、きっと父親譲りだろうと思う。 俺は母親の化粧品の中からピンクのリップスティックを取り出し、自らの唇に塗りたくると着ていたTシャツにそれを押し当てた。わざとらしくならないように場所や濃さを充分注意して確認した後、無造作を装ってわざとリップの色が目に付くように洗濯カゴに放り込む。 果たして見つけてくれるか。 確信は持てないまでも、成功を期待するあまりむしろワクワクして床についた。すっかり疲れきっていたので、寝入るのには大して時間はかからなかった。
俺の朝はいつも遅い。 眠っていても俺の耳は、俺を起こしにくる母親の怒り具合と遅刻の危険を足音から正確に聞き分ける。ところが、その日にかぎっていつまでたっても母親が起こしに来ない。感覚的には、そろそろ遅刻しそうな時間なはずだ。 すると、いつに無く力ない足音で母親が階段を上ってきた。普段と違う雰囲気に俺はすっかり目覚めてしまっていたけど、通常を装って寝たふりをしていた。 枕もとに立って、いつもの如く起こすのかと思いきや母親は無言でいる。 どうやら座り込んで俺の顔を覗き込んでいるようだが、寝たふりをしている手前想像することしかできない。この時点で俺はTシャツのキスマークが功を奏したことを確信した。 そこは女親だ。18年間育ててきた息子が初めて異性の影を匂わせれば、やはり心中は複雑なのだろう。しかし、あまりに長い沈黙に耐えかねた俺は、ふと目が覚めて母親の姿に驚いたふりをし、今何時かと時間を尋ねた。 母親は、なお一瞬の間俺の顔を凝視した後 「遅刻するから、早く起きなさい」 と、どこか寂しげに1階へ降りていった。なんだかあまりの効果に申し訳なさを覚えて、俺は内心頭をたれた。
その後は帰宅時間に関して注意するようになったこともあり、先日の遅い帰宅に関してはまったくもって触れられることはなかった。 しかし、時には母親に本気で引っ叩かれながらも、相変わらずマイペースな俺がようやくに教科書を開いたのは紅白歌合戦が終わる頃だった。
嗚呼、お母さんごめんなさい。 |