卒業戦士

俺が小学生のとき、テレビで伊奈かっぺいは言った。

「明日できことは今日するな」

以来、いわゆる「コツコツとした努力」というものからはかけ離れた生活を送ってきた。宿題はみんなが提出する中ダッシュで終わらせ、テスト勉強などしたら本来の自分の実力が見えないと開き直り、5分で書いたピカソばりの絵をこれが芸術だと胸を張った。

高校受験では1週間、大学受験では2週間の受験勉強で、周りからは合格するわけがないと言われた。が、どういうわけだか運良くどちらも一発合格。これで受験勉強にさよならできたと怠け心に拍車をかけて、俺は大学の門をくぐった。

 

上京して、初めての一人暮らしは楽しい。外泊も呑み会も、親の干渉を受けることなく思いのままだ。サークルの勧誘があったり、新しい友達が出来たり、めまぐるしく時間は過ぎていく。やがて遊びなれていくうちに段々と基本的な生活時間帯が自堕落になってゆき、気が付くと1-2限の出席は皆無になっていた。俺の大学は2年生へは無条件で進級できる。大した危機感も無いまま、俺は大半の単位を落として2年生になった。

3年にあがるときには2年次修了審査があり、1年生の必修を2コ以上落としていると留年となる。2個どころかほとんど落としていた俺だったけど、友達と一緒の試験対策と教官への根回しの甲斐あって1年生の必修は1個を除いてなんとか取得できた。が、このときこれ以外の単位はほとんど取得しておらず、3年生にはなったものの卒業に向けて膨大なビハインドを抱えていた。

毎年、年度末には来期こそ真面目に授業に出ようと思う。でも、春先の授業に出て去年も一昨年も聞いた内容をまた聞いているうちに退屈になり、来月くらいから出席すればいいかなどと思ってしまう。そんな矢先、理系の学生がこれを落としたら絶対卒業できないという「実験」で、教官と大喧嘩をした。おまえは絶対に卒業なんてさせてやらないと言う。俺はその日から年度末まで全く学校に行かなかった。

圧倒的に足りない単位数、授業・試験無出席、これではさすがにどうしようもあるものではない。当然留年した。この年の取得単位数は0。

 

翌年、また大学には行き始めたが、それは1年間の夏休みを過ごした後だ。一応の履修申告はしたものの、そうそう生活態度が改まるわけが無い。半ばやる気がないまでも、一応の試験は受けて前期が修了した。友人の協力の甲斐もあってか若干の単位の取得はできたものの、まだまだ卒研着手審査(4年にあがるための審査)までは程遠い。俺はすでに、2度目の留年を親になんて言おうか思案していた。

が、奇跡は起こった。

後期もほとんど授業はでなかったものの、重複履修での単位取得の話を先輩から聞き、履修申告すらしていなかった授業の試験も片っ端から受けてみたのだ。カリキュラムでみると3重履修になっている個所も多かったけど、この当時教務課は厳しくチェックしておらず、また友人の協力を得てほとんどの試験をパスしてしまった。

この半期だけで4年分の全単位数の1/3を取得し、それでも実はまだ1単位足りなかったのだけど、すかさず甘いと有名な教授の所に菓子折りを持って相談しに行き、レポート提出で単位を出してもらった。まだまだ卒業には程遠いものの、俺は4年生に上がることになった。

しかしギリギリのラインで4年にあがったため、卒研のみに集中できる生活は出来ない。

単位の取得にあえぎながら、俺はゼミにも全く出席しないで前期を終えた。そこそこの数の単位は取れたものの、思ったよりも状況は悪く後期にかなりプレッシャーがかかる。俺は実験もまだ残っていたのでさらに辛さに拍車がかかっていたが、結局実験のレポートはマージャンの勝ち分をカタに後輩に書かせ、期限内に提出して事なきを得た。

 

後期に入り年末も近くなるといよいよ卒研も仕上げにかかるのが普通だ。だが、この時点で俺はまだテーマすら決まっていなかった。相変わらずゼミもほとんど出席せず、この年初めて出席したゼミでは教授に怒鳴り散らされすごすごと退散した。とはいえ卒研なしでは卒業できないので、俺はようやくに卒研のテーマの絞込みと内容の吟味にかかった。

正月を越えてようやくテーマに沿った勉強と論文の作成を始める。今までの時間の穴埋めをするためにはどうしても睡眠時間が削られていくが、もはや背に腹は変えられず俺は次第に必死の形相になった。そして2月の上旬、連日の徹夜を経てようやく出来上がった論文を手に俺は教授の部屋のドアをノックした。提出期限が3日後に迫っており、教授の承認が必要だったからだ。

「ああ、君はまだ卒業する気があったのか」

軽いイヤミのジャブからきたが、まぁこの程度では痛くも痒くもない。俺は聞き流してよろしくお願いしますと論文を手渡し、ページをめくる教官の手を寝不足の眼差しでボーっと見つめていた。すると、ふとぶつぶつと文句を言いながらページをめくる教授の手が止まった。この計算はおかしいという。俺は一つ一つ説明しながら自分の計算が正しいことを力なく主張した。もう一行足りとも書き直す気力が残っていなかった。

しかし、無常な教授の指先は積分記号の左肩を指差し、一言こう言った。

「計算はあってても積分定数が待ちがっていたら意味がないだろう」

その後、頭が真っ白になった俺の前で本来の計算を俺の論文に赤ペンでガシガシ書き込み、この計算が違うと残りの部分も全く無駄であるといい、ふだんからゼミにも来ないからこういうことになるんだといい、そもそもこんな論文で卒業できるわけが無いといった。俺は活動を9割9分停止した脳のしわの片隅で、このまま教授を殺して自分も死ぬことを呆然と夢想していた。

 

深い霧が立ち込めたような真っ白な空気の中で、どれくらいの時間がたっていたことだろう。

俺は以前何をどうしたものか検討もつかず、呆然と座り尽くしていた。それを見かねたのかどうか、隣の部屋にいた教授はため息をつきながら分厚い本を10数冊持ってきた。何事かと思って目を見張ると、ここから卒研のテーマを選べという。体力的にも限界だったため、へなへなと本のページをめくっていると、教授は本の一冊から昔自分が発表した論文を指差し、これと同じ事をやればこの本を参考に出来るし、こんな昔の論文は誰も覚えていないといった。

俺の脳裏でチャイムが鳴った。

気力を振り絞り、今まではちょっと小憎らしく思っていた教授に繰り返し礼を述べて、その本を抱えて部屋を出た。ドアを閉める間際に教授は「まぁ提出までに間に合うかは解からんが、せいぜいやって見たまえ」と言った。俺は朝露のしずくのような一縷の望みを得て、駆け込むように研究室に戻った。

体力的にはもう限界だった。でも時間は全く無い。無い気力を振り絞って俺は新たに論文を書き始めた。実質は教授の昔の論文の焼き直しではあっても、モノとしては実際に論文の形を取ってなければならず、また発表のためには内容を把握していなければならない。

数十枚の論文をPCに向かってひたすら打ち込みつづけ、家にも帰らず、ろくに飯も食わず、ただひたすら論文を書きつづけた。提出期限の朝ようやくに論文は仕上がり、提出すると教官は苦虫を30匹ほど噛み潰して論文を受領した。俺は研究室の床に新聞を敷いて気絶したかのように倒れこみ、夜中にふと気付いたときには左耳の周りの髪の毛が鼻血で固まっていた。

数日の休養を経て、いよいよ卒研の発表の準備に入る。既に内容は出来上がっているため気楽だ。研究室の仲間と他愛も無いことをしゃべりながら、俺は既に山を越えた感覚を味わっていた。付け焼刃の勉強では発表時に質問に答えられずひやりとさせられる部分もあったけど、教授が発表時間ギリギリまで長々と講釈を述べてくれたため事なきを得た。今となってはまさしく恩師と言えよう。

 

その後も俺は他のメンバーと違って、必要単位数取得のための試験が待っている。でも、就職が決まっていれば試験の単位は出たも同然という。甘く見ていた俺はリラックスしたままで試験に臨んだ。もうすっかり卒業したような気分になっていたのだ。だが、結果を見て俺は青くなった。みると現実は予想外に厳しく、必要単位が1コや2コというレベルではなく、ぜんぜん足りなかったのだ。

当然卒研修了と就職内定でテコ入れに教授のもとへ行く。が、どの教授も手ごわい人が多くなかなか単位をくれそうに無い。それでも何人かの教授は追試を行ってくれるというので、仲間内で勉強することにした。

寒い研究室の中で徹夜で勉強するが、本来の得意科目ではないため思うようにはかどらない。中の一人が、「きっと前回のテストと同じ内容だよ」と気楽なことを言い、結局前回のテストの問題のみを解けるようにした。追試問題は全く違うないようだった。ほぼ全員がほとんど点を取れず、教官も業を煮やしたもののしつこい懇願に最終的には追々々試までいって、ようやくしぶしぶ単位を出してくれることとなった。

その他の教官も手を変え品を変え弁舌を尽くし座り込み日参して、またしても徹夜を重ねての未提出のレポート提出や再試験で単位を取得した。卒研発表審査の教授会で俺の論文がパスしたことがプラス材料になったらしい。計算では取得単位数が卒業に足りており、俺は今度こそ卒業と安堵に胸をなでおろした。

 

そして数日たち、吹く風が暖かくなってきた3月上旬。金のある奴らは卒業旅行にでも言っていた頃だ。

のんきに眠りこけてた俺の部屋の電話がなった。受話器を取ると大学の教務課からで、卒業に関して重要な話があるからすぐに来いという。なんかの記入ミスかなぁと行ってみると、なんと俺は単位の計算を間違えており、1単位足りないから卒業できないという。教務課の担当は無表情を崩さずに、卒業不可への同意のサインをするように促した。

かなづちで頭を殴られたような気分を顔に出さないように装いながら、俺は計算を確認したいから最新の成績表を見せてくれと言った。諦めが悪いねとは口に出さない担当が俺の成績表を取りに戻っている間に、俺はサインをせずにその場から逃げた。

もう泣きたい気分だった。単位をくれそうな教授にはすでに当たり尽くし、もうこれ以上の単位の取得の可能性は全く残っていない。たった1単位。半期のそのまた半分で取得できるその1単位のために、1年をまた過ごし就職をフイにするのかと思うと気が狂いそうになって、どうにかならないものかとわらにもすがるような思いで学生課を訪れた。

若干シチュエーションを脚色しながら学生課の人に話をすると、後期の教授はみんな多分無理だから前記の教授を当たってごらんといった。いまさら前期の教授の単位が有効になるのは初耳だったがけど、それでも可能性のある教授は一人しかいなかった。もちろん他に選択肢はない。俺は目を血走らせながらその教授の部屋のドアをたたいた。その、一見すると強面の教授は、「学生課から話を聞きました。入りなさい。」といった。

学生課でした話をそっくり繰り返し、俺は正に懇願するようにお願いした。教授はしばらく考えた後、さぞみすぼらしく見えたであろう俺に向かって「まだ単位を上げるとは約束できないけど、課題を出しましょう」といった。俺の脳裏でまたチャイムが鳴った。

 

課題は英語の論文の和訳とその内容についての口述試験だった。内容についてはITだったため得意分野で問題ないのだけど、英語の論文の和訳はいかんせん辛い。でも幸い入社内定の同期には帰国子女もおり、お願いすれば助けてくれそうだ。俺は早速お願いのMailをしたため、2人から了解を得た。

期限は4-5日しかなかった。それを過ぎると教務課の単位計算の期限がきてしまうため、留年が決定してしまう。俺は2度の卒業気分のあと、再び留年の危機と背中合わせの日々を迎えることとなった。とはいえ、帰国子女のサポートもあるしまぁなんとかなるだろうとタカをくくっていた。提出期限の前日は協力してくれているやつの研究室に泊まりこみで一緒に仕上げてくれる約束になっている。これならきっと間に合うだろう。

初めて見る他大学の研究室にちょっと戸惑いながらも和訳を黙々と進める。現在と違って当時の英文の読解は遅々として進まないが、なんとか朝までには終われそうだ。ちょっと休憩してコーヒーでもと思ったときに研究室のドアが開き、今夜は来ないはずのそこの研究室の教授が入ってきた。他のメンバーがちょっと慌てている。嫌な予感が走った。

結局研究室への宿泊は不可となり、京王線の最終電車も終わった新宿で俺は途方に暮れていた。協力をしてくれた奴らは既にあらから仕事を終えてくれてはいたけれど、レポートを書く場所が無い。当時貧乏だった俺はホテルに止まる金も無く、新宿駅の寒風吹きすさぶベンチでの徹夜を観念しかけたとき、中央線の終電のアナウンスが入った。まてよ、そうか吉祥寺に大塚がいる。

大学の同期の大塚に電話をすると、おまえも相変わらずしょうがねーやつだなぁと文句を言われながらも朝まで家にいさせてくれるという。俺は電気ストーブと台所の片隅を借りてのこりの和訳にふけった。床に座っている尻と、いつのまにか出来ていた中指のペンだこが痛かった。休憩を全く入れずに、提出期限日の午前7時に和訳は出来上がった。朦朧とする頭で大塚に礼を述べ、吉祥寺をあとにして大学へ向かった。

 

緊張しながら、提出のために教授の部屋をノックする。ちょっと忙しいのでそこに座ってなさいと部屋のソファーへと促された。一瞬眠気が襲ってくるが、ここで失敗すると全てが水の泡だ。しばらくしてから教授がお茶を出してくれて、比較的リラックスした雰囲気で口述試験が始まった。

内容に関しては俺の専門分野なので論文など読まずとも答えられる。30分程度のやり取りの後、教授はにっこり笑って「この和訳文をコピーして、そのコピーを提出してください。原文は君自身が持っていればいつか君の役に立つでしょう。コピーの提出を持って君の単位取得とします」といった。

コピーを教授に渡して教務課に行くと、既に連絡がきていたらしく卒業が確定したことを知らされた。ヒザから下に感覚の無い足を引きずりながら公衆電話まで行き、母親に卒業が確定したことを報告し、その後家に帰って冬眠したクマのように眠った。卒業式では、教授の大多数に俺が卒業したことを驚かれながらも卒業証書に自分の名前を確認出来た。でも全ては他人事のような響きで、今目の前で起こっていることが現実なのかそうでないのかもはや判断しかねるような自分を持て余していた。まだ何か起こるのではないかとどこかビクビクしていた。

結局そうして卒業も就職も確定した後も、7月になり仮雇用期間が終わるまでは時々留年する夢を見て、その度俺は嫌な汗で枕を濡らしたのだった。

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