父の魂

俺は父親似だと思う。

こんこんとあふれ出る湧き水のように絶え間なく繰り出されるダジャレや、まっ黄っ黄のスウェットを着て「イエローマン参上!」と叫んでからさわやかに銀歯を光らせ、颯爽とジョギングに出かけるあたりはとても他人ではありえない。話題は豊富な方で、最近は酔うと訳のわからないファンキーな英語でパフォーマンスをする。肉親ながら面白い。

でも、今でこそ”ひょうきん”なキャラで通っている父だけど、昔は恐怖の存在だった。

まともに口を聞く事はおろか、一緒にいる時間は息が詰まるようだった。理不尽に殴られたこともあったし、母とも喧嘩が絶えなかったため家族の中では浮いていた存在だった。少なくとも息子二人はあんまり父親が好きではなかったと思う。

遊んでもらった思い出といえば、3歳くらいだったと思うけど肩車してもらって鴨居に強かに頭を打ちつけたこと、ドライブと称して仕事の出先に車で回るのに一緒に乗っかっていったことくらいしか覚えていない。1-2回キャッチボールをしたこともあったけど、全く楽しそうじゃない上、すぐに「もう終わろう」といってやめられてしまった。

また家事に関しては、細かいことまで気にする性質だった。母を怒鳴りつけることもしょっちゅうで、それが母子の反感を買い、きっとあまり家の居心地がよくなかっただろうなぁとおもう。

そんな父の考えが少しずつ見えるようになってきたのは、酒の味を覚えたくらいだろうか。

 

父は、儒教の教えが厳しい親戚の家で、親に甘えることを知らずに育った。何につけてもまず長男が尊重されるなか、次男である父は随分と肩身の狭い思いをしたらしい。持ち前の調子のよさは、きっとそういった環境下で培われた防御手段なのだろう。遊びも早くから覚えた方で、大学にはろくに出席もせずに卒業したあたり、血は争えない。

母は4人兄弟の末っ娘で、可愛がられることに慣れていた。幼い頃病気がちだったこともあり、あまり世間を知らずに育った。マイペースで若干おっちょこちょいだけど、従順で真面目な人だ。

この二人がどういうわけか知り合って結婚した。なれ初めは、母の兄が雇われマスターをしていた北海道のバーにいた頃、母が店の手伝いをしており、父が客として来ていたのが始まりらしい。母は父が話してくれた星の話にうっとりとしてしまい、父も嘘か誠か定かでないがその当時結婚を目前に控えた相手をフってまで母をえらんだんだそうだ。二人とも声を揃えてあれが失敗の始まりだったという。

母はよく父に叱られていた。特に家事に関しては、ほぼ毎日のように怒鳴られていた。家の片付けの仕方や電話の出方、延いては食器を下げるタイミングにまであれこれ口をはさんでは叱り付けた。一見すると亭主関白なこの状況は、子供ながら母がかわいそうで胸を痛めたものだ。

でも母は、叱られることよりも思いやりが感じられないことが辛いと言った。

父には、そんな母が切望する「思いやり方」がわからなかったのだろう。長男第一の家に育ち、充分に甘えることを知らなかったからではないかと思う。父は母の思いやりを素直に受け止めて喜ぶことが出来ず、むしろ鬱陶しいように見えることが多かった。反対に父が冗談めかして母の機嫌をとろうとするときも、決まって母は不快な顔をしていた。母にも父のそういうコミュニケーションのとり方が理解できなかった。

母は恐らく、父の家事に関する口うるささや生活観の欠落、思いやりの無さをずっと我慢してきた。従順な母のことなので、辛くありながらも自分を省みようと努力して来たに違いない。でも、一見好きなように振舞ってきたように見える父も、実は一つの事実にずっと耐えていた。父にははっきりと答えが見えていたに違いないと思う。「二人は違う」と。

目の前にある一つ一つの物事に対してではなく、価値観・世界観を含めた、物のあり方についての根本的な考えが違うという事実について、はっきりとした答え無しに耐える母よりも、答えが明瞭に見えてしまった父のほうが耐えるにはむしろ辛いことあったかもしれない。互いに理解し得ないジレンマが苛立ちとなって態度に出た部分も少なからずあっただろう。母には子供二人を含めた自分の味方や理解者がいた。でも父にとってはずっと孤独な戦いだった。

 

俺は人並みに遊びもし、男同士の付き合いも覚えていたので、そういう父の「ノリ」は少しずつ理解できるようになっていった。不器用な性格の父は、自分の感情を上手く表に出せない典型的日本男性だ。言葉や態度に出さない感情のやり取りは、相手を選ばないと伝わらない。たまに母に隠れて一緒に酒を飲みだしたあたりから、そういった父の一面を肌で感じることが度々あった。その頃には、父の子供に対する態度は以前に比べて随分軟化していたように思う。

プライドは人一倍高い父だった。たまに酔うと、「我が家は平家の末裔にあたるから、いつかプライドのために命をかけることもあるかも知れないことを覚悟しておけ」というような話を何度か聞かされた。決して他人に対して横柄な態度をとることは無かったけど、心から人に感服しているところは見たことがない。子供を誉めることもほとんどなかったあたりは、今思えば微笑ましくも大人気ないライバル意識だったのかもしれない。

でもそんな強気な父も、病気で死線を越えて少し変わった。

四国の空港でバケツ一杯血を吐いた父は、再度発作が起こったら助からないと言われた。幸い発作は起こらず、しばらくの入院の後自宅へ帰ってきものの、それまで気にも留めなかった自分の健康に対して神経質になり始めた。また、「今のうちに実家の墓を見せておきたい」などと言って、家族を秋田へ連れて行ったりした。

直接誉められたわけではないけど、俺の就職も今までに無く素直に喜んでくれたようだった。初任給では、母が小さい頃からあこがれていたロッキングチェアーを買って送った。一人前になったことを喜ぶと共に、プレゼントが母親だけだったことにちょっとスネてたらしい。

また、以前は俺に対して「タダのパソコンマニア」とタカをくくっていたのが、コンピューターに関した事はは色々と相談を持ちかけてくるようになった。父の仕事の話もそれなりに理解できるようになり、実家に帰ると以前よりも父とよく話す。息子と酒を飲むのを楽しみにしているらしく、わざわざ良さそうな酒をいつも用意してくれている。歳をとったなぁと思いながら、父の話にうなずきグラスを傾ける。この歳にしてようやくの、父子らしいコミュニケーションだと思う。。

 

そんな父は、俺の結婚式のあと一通の短い手紙の中でこう言った。

「きっと反面教師にくらいはなったのではないかと思います」

行間からにじむ父の魂。そろそろ親孝行をするような歳になったんだなぁとちょっとした感慨に浸りながら、俺は海の向こうに思いを馳せるのだった。

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